こんにちは。ジグソーパズルを持ってますか?野村です。
単色のピースが並んでいる部分は難しいですよね。
どれも同じピースに見えるのに、間違った配置では収まらない。
どうしても収まらないときはピースをカッターで整形したくなります。
「砂男」再び
前回は、ホフマンの短編小説「砂男」を紹介しました。
そして今回、「砂男」を取り上げているとのことで、フロイト「不気味なもの」を読んでみました。
文学を精神分析的考察で読み解いた論文集『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの (光文社古典新訳文庫)』に収録されています。
で、不思議に思ったのが「不気味なもの」の原注にあったこの一文。
この自動機械の人形オリンピアは、ナターニエルが幼少時代に父親に示していた[女性になって父親に愛されたいという]女性的な態度を物質化したものにほかならない。
(フロイト「不気味なもの」中山元・訳 『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』光文社 より)
こんな倒錯した態度を示す描写が「砂男」本編の中にあったとは気付かなかった。
自分の感受性や読解力が浅いからだろうけど、何というか、狐につままれたような感じもする。
とにかく「不気味なもの」「砂男」の両方を読み返しながら考えてみました。
自動人形の存在は主人公の願望そのもの
この「砂男」という作品、確かに主人公は母親より父親になついている印象がある。
父親から去勢の恐怖を感じることはないのかも。
なんだか、エディプス・コンプレックスの構図が当てはまらず、座りが悪そう。
そこで導入したのが「2つの対立する父親像」。なのかな?
善き父親像 | 悪しき父親像(去勢の恐怖) |
父親 | コッペリウス |
スパランツァーニ教授 | コッポラ |
こうやって見ると「父を排除し、母を手に入れる」のバリエーションとして機能するので、「『悪い父親』を排除し、『善き父親』を手に入れる」という物語が可能になる。
さらにいえば、主人公が「父を手に入れたい」のであれば「女性になりたい」という願望を持っている。に違いない。
自動人形・オリンピアは女性であり、スパランツァーニ教授とコッポラの制作物(=子供)。
メタ視点で見れば、オリンピアの存在は主人公の願望そのもの、ということになる。
以上を前提として読めば、主人公の父親に対する態度が女性的に見えてくる、のかな?
最後に
フロイト先生は、主人公のオリンピアへの想いを「ナルシシズム的な恋と呼ぶことができる」と断言してます。
でもそれはメタ視点から見て初めて言えること。
すぐには納得できなかったけど、思い直しました。
小説って、不完全なジグソーパズルのようなものですよ。
ときにはメタ的に眺め、足りないピースを読み手が用意することで広がりを見せてくれるものなんだろうな。
てなわけで今回はこれにて。