神経を原材料にすると、かなりの物を製作することが可能だった。例えば楽器だ。もとの神経がすり減っていればいるほど、繊細な音が出るのだった。
(アゴタ・クリストフ『どちらでもいい』所収「先生方」堀茂樹・訳 早川書房 より)
こんにちは。神経は丈夫ですか?野村です。
神経で製作された楽器、ぜひ音色を味わいたいもんです。
神経って、物質と現象の中間っぽくて素敵。
他にも楽器になりそうなものはないだろか?
三半規管はちょっと楽器っぽい。
でも、神経ほどのインパクトはないなあ。
ノートに埋もれていた作品群
というわけで、アゴタ・クリストフ『どちらでもいい』を読みました。
『悪童日記』で世界から絶賛された著者による25篇の小品集。
内容は短編小説やショート・ショート。中には詩やエッセイとも取れる作品もあります。
収められているのは、ノートの片隅で埋もれていたもの。
完成度は不揃いとはいえ、皮肉、厭世、無関心、淡々として乾いた感触を堪能できます。
「先生方」
気になったのは「先生方」。語り手の回想で構成される4ページの作品です。
テーマは愛情。
というか、教師たちや黒板のチョークに対して語り手が抱く感情です。
これがどうも一筋縄じゃいかない。言動からすると3パターンの状況が考えられるのですよ。
(a) 単なる皮肉
(b) 愛情と異なる感情を愛情と呼んでいる
(c) 実際に愛情を抱いている
最初に読んだときは(a)かと思った。ようするに嘘。
物語の手法「信頼できない語り手」の一種じゃなかろうかと。
ただ「神経組織を抜き取る」などのナンセンスなくだりがあるのが気になる。
それらが語り手にとっては現実である、と解釈すると(b)の可能性もある。
思考や言語が我々と食い違う世界を描いているのかも。
そして繰り返し読むうち(c)と考えることにしたのですよ。
愛情を定義できない以上(b)と断定するなんてできない。
素直に語り手の狂気を味わいましょう。
てなわけで今回はこれにて。