「それじゃ結構だ。疲れ切ってしまわないようにすることだね。そうでないと、車輪の下じきになるからね」
(ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』高橋健二・訳 新潮文庫 より)
こんにちは。冒頭の引用、意味がわかりますか?野村です。
僕は、わかりそうでわかりません。
これがもし「そうでないと、取り返しがつかなくなるからね」あたりなら不自然さはない。
でも、原文と食い違ってしまうのだろな。
しかし「車輪の下じき」って不思議な響きだ。慣用句なのかな?
一度殺した自分への救済
というわけで、スイスの作家、ヘルマン・ヘッセが1906年に発表した小説『車輪の下 (新潮文庫)』を紹介します。
ぶっちゃけますが、この作品の主人公・ハンス君、最後に死にます。溺死。
事故かも知れない。自殺の可能性もある。
他殺のセンは非常に薄い。つーか、もし他殺なら物語が台無しだな。
この自伝的な作品で主人公を殺す必要があったのは、きっとヘッセ自身が自殺志願者だったからなのだろう。
未遂をやらかしたり、2度ピストルを買ったりと、たいへんな十代を過ごされたそうです。
『車輪の下』という虚構の中で願望を達成したのだと思う。
そしてこの願望達成は、作者が生きるために必要な儀式だったのかも。
ヘッセの後の作品『シッダールタ』や『荒野のおおかみ』でも主人公は自殺願望に陥ります。
でも救済がある。
本書でも救いがあるものと思い込んで読み進めていたので、この結末は結構ショック。
物語の背景にキリスト教が大きく居座っているのに、何ら役に立っていないのが象徴的。
で、今回、初めて『車輪の下』を読んだのだけど、「失敗した」と思いました。
他のヘッセ作品を手に取る前に読んでおくべきだった。
というのは、「『荒野のおおかみ』の享受、『シッダールタ』の境地を通し、『車輪の下』で一度殺した自分自身に手を差し伸べている」と感じたから。
いずれ発表順に読み直してみよう。
あと、本書は教育のありかたに警鐘を鳴らす作品でもあります。
でも、その部分は僕に響かなかった。
シビアな受験を経験した人、受験生を抱える家族、そして教育者が読めば思うところがあるはず。
僕は誰からも期待されなかったし、誰かに期待したこともないのです。
なんだか自分の薄っぺらさが身にしみる。
てなわけで今回はこれにて。