書物には魔術的なところなど微塵もない。魔術は、書物が語る内容にのみ存在する。
(レイ・ブラッドベリ『華氏451度』伊藤典夫・訳 早川書房 より)
こんにちは。魔法を信じますか?野村です。
魔法って、必ず欲望が先行しているイメージが自分にはあるのですよ。
できることなら「書物が語る内容」に潜む欲望を噛み締めながら読書したいものです。
そんな思いも欲望ではある。
テーマは「破壊された文化」
というわけで、アメリカの作家、レイ・ブラッドベリが1953年に執筆した小説『華氏451度〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫SF)』を読みました。
タイトルの「華氏451度」を摂氏になおせば、およそ233℃。
これは、紙が燃え始める温度を指しています。
舞台は未来。読書や書物の所持が禁じられてから既に長い年月が経った世界。
この禁を破った者は拘束され、「昇火士」と呼ばれる役人によって本は燃やされてしまう。
主人公は 昇火士のひとり。
隣人である少女との出会いや、任務中の体験を通し、社会に対する疑問を膨らませます。
そして行動に移し、追われる身となる。というストーリー。
この作品は一見「検閲社会への批判」のようだけど、実際には「破壊された文化」がテーマとのこと。
受け身にしか情報に触れられないメディア・システムに甘んじる市民。
その結果に蔓延する、記憶力の水準の低下、底の浅い倫理などの描写に力が注がれていました。
書物は執着の産物
後半。目を引いたのが「なぜものを燃やしてはいけないのか」の答えにたどり着く場面です。
無理やり要約するとこんな感じ。
太陽は時間を燃やしている
→時間は年月と人びとを燃やすのに忙しい
→誰が手助けをしなくとも、その営みはつづく
→俺達が燃やし、太陽も燃やしていては、全てが燃えてしまう
→誰かが燃やすのをやめなくては
→太陽がやめるわけがない、やめるのは俺達の側だ
このように主人公は、河に浮かび、月を眺めながら思考を巡らせるのですよ。
論理というには詩的過ぎて首をかしげてしまう。
でも、太陽と自分を同列に並べているのが面白い。
逃亡中の人間というのは、特別な思考が働くものなのかも知れないです。
主人公に訪れた「気づき」には、どことなく悟りの境地を連想しました。
ところが結論は「モノやコトの保存」に向いているんですよね。
いわゆる「執着からの解放」とは正反対。
書物というのは執着の産物なのだな、などとあらためて考えさせられる。
てなわけで今回はこれにて。