背理法で「イマジン」を演奏したい(加藤文元『数学の想像力』)

<正しさ>は変貌し、かつ恒久普遍なのである。そこに数学という学問の奇跡があるのであり、その奇跡はこれからも続くに違いない。「奇跡は起こっているのだ!」
(加藤文元『数学の想像力』筑摩書房 より)

奇跡とは、たくさんの音楽が存在するということでも、またその多くが美しいということでもなく、むしろ、とにもかくにも音楽が存在するというそのこと自体である。
(ルー・ハリソン『ルー・ハリソンのワールド・ミュージック入門』財団法人ジェスク音楽文化振興会 より)

こんにちは。毎日がミラクルですか?野村です。

今回紹介する本は「音楽と数学は似ている」という話題から始まります。
そして「背理法に対応する音楽の形式は何か?」と読者に問うのですよ。

わからない。でも無視できない。見事に自分のツボを押さえられてしまった。
なんだかエライ本を手に取っちゃったな。

直感を徹底的に排除する

というわけで、加藤文元『数学の想像力: 正しさの深層に何があるのか (筑摩選書)』を読みました。

数学史を紐解きながら「数学の正しさとは何か?」を考察する本です。

やはり「正しさ」とは「論理的に証明できること」であると素人なりに思えます。

意外なことに、この「証明という手続き」は、世界史的には極めて局地的な産物らしい。
古代ギリシャでしか生まれてこなかった。いかにも普遍的な印象があるのにね。

そもそもは論理重視じゃなかった古代ギリシャが、ある時期から「直感の排除」が支配的になったとのこと。
そのへんの宗教的・思想的背景がわかりやすく説明されていました。
「証明とはもともと宗教祭儀であった」という仮説もあり、好奇心を揺さぶってくれます。

中でもエレア派(パルメニデスやゼノン)が興味深い。
「あらゆる運動は不可能である」という命題を証明してしまうのですよ。
そして、この「現実と論理の不一致」に迷うことなく論理的思考の側を選択する。

「自分が見ているものは偽りかも知れない」ってことも頭の片隅に入れておきますか。

想像してごらん

読んでる最中「背理法に対応する音楽の形式は何か?」という問いが頭の中を離れなかった。
でも降参。見当もつかない。
ただ「どんなときに背理法を使うのか?」を手がかりにすると道が開けそうな気がした。

たとえば「素数は無限に存在する」ことの証明。
背理法を使えば「素数を数える」という正面突破法を用いずに解決できてしまう。

できることならジョン・レノンの「イマジン」を背理法で演奏したいもんだ。
そしたら正面からじゃ実現しそうもないレノンのメッセージが花開いたりして。

てなわけで今回はこれにて。

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枕は高いほうがいい。高いほうが本を読みやすいのですよ。なので広めのタオルケットを何重にも折りたたんでその上に枕を載せてその上に頭を載せてたりする。