味音痴だから斬り込める(森達也『不寛容な時代のポピュリズム』)

「関サバや関アジ、それと岬サバ、岬アジは、何が違うんですか」
「値段じゃろうが」
アポロキャップを被り直しながら、おじさんは飄々とした口調で言った。
「違いは他になかよ。まあ世の中なんてそんなもんじゃ」
(森達也『不寛容な時代のポピュリズム』青土社 より)

こんにちは。世の中を理解できてますか?野村です。

値段というのは重要です。そして強敵です。
いつか味方につけてみたい敵でもあります。

絶望のススメ

というわけで、映画監督・作家、森達也が2017年に発表したエッセイ集『不寛容な時代のポピュリズム』を読みました。

2006〜2017年にかけて雑誌やネットに発表されたエッセイを集めたものです。

メディア論、原発、オウム真理教などなど、おなじみのテーマに加え、いじめ、食品偽装といった時事ネタも多く盛り込まれてます。

著者はもう、絶望しない国・日本に絶望しているそうですよ。
そして、日本人が絶望することを望んでいます。
もうそこにしか活路を見いだせないとのこと。

なるほど。言われてみれば、この表紙は絶望の仕草だ。

「価値を見いだせない」という体験

本書の中で著者は、自らが味覚音痴や臭覚音痴であることを明かします。

僕も同じなのですよ。味覚や臭覚の感覚が鈍い。恐らく生まれつき。
幼い頃は自覚なかったけど、徐々に周囲との違和感が増していった感じ。

世間の人や身近な人が「美味しい」と言っているのに、その感覚が共有できない。
当然、味へのコダワリには無縁。
結構コンプレックスだったりする。

そういえば以前「料理を美味いとか不味いとか評価するのは、はしたないことかも知れない」のようなことを『美味しんぼ』の山岡士郎が言っているのを知って、勇気づけられたこともあったな。

とはいえ、味の違いがわかる大勢多数を「はしたない」と貶めたところで虚しいもんです。

味覚音痴、臭覚音痴、方向音痴、音痴。
〇〇音痴とは、ようするに「標準とのズレ」のことじゃないだろか?
著者の場合、ズレつつ過ごしてきたことが蓄積され、タブーに斬り込む力となったのかも。

なんらかの物事について「価値を見いだせない」という体験をしっかり受け止めなければ。
わからないからといって服従や妥協に甘んじるのは勿体なさすぎる。

てなわけで今回はこれにて。

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枕は高いほうがいい。高いほうが本を読みやすいのですよ。なので広めのタオルケットを何重にも折りたたんでその上に枕を載せてその上に頭を載せてたりする。